琵琶という楽器は、かつてアジアのあらゆる国で使われていたが、現在では、中国をはじめ、ベトナム、日本などの限られた地域でしか見られない。大陸では、琵琶は器楽音楽の楽器として発展してきたのに対して、日本だけは語り物の伴奏楽器として愛されてきた。さらに、中国では音楽的表現の向上の為に、琵琶の形やフレット、弦などに、時代とともに改良が加えられてきたが、日本では、一定の祖形を保っている。たとえば、「文机談」という鎌倉時代の楽書によると、琵琶の四つの弦は、四季を表し、四つの柱は四方を表す。薩摩琵琶は現在も、この四弦四柱の形態を保っている。なぜかと言うと、音楽以外の要素、もしくは、音楽以前の要素をずっと重視してきたからであると思われる。つまり前者の基本的な考えは、楽器は鳴らすものなので、それを鳴らし易い方向に導くことは、ごく自然であるが、後者にとって、鳴るのは楽器ではなく奏者の方なのであるから、改良を加えられるべきものは、奏者である、と言う考えに立っているのである。
こういうことによって、日本の琵琶は、娯楽的な性格は少なく、あくまで人間を成長させる一つの道具として、使われてきた。だから、琵琶を弾くことは、まさにひとつの修行することにほかならないのである。ここで言う修行とは、己を知り、自分の存在を悟り、感覚を深く見極め、それを繊細に捉えることである。
これを実現するには、さまざまな工夫が必要となる。たとえば、無弦琵琶法という練習方法がある。また、琵琶の音を三つの部分(撥音、弦音、指音(ユリ、オシテなど))で出来ていると捉えて、それぞれの部分を丁寧に扱うことを心掛ける。琵琶を暴力的に強く叩いたり、乱暴に弾いたりすることは、けっして良いことではなく、必ず音の響きと音量の大小を常に深く理解するべき。力は音で発生して、伝わるもので、目を通して感じるものではない。
さらに、琵琶において伝統的に使われてきた音楽理論や弾法を整理・記録し、後世に伝える必要のある時代となってきた。それとともに、既存の琵琶歌はもとより、能に見られるような趣のある題材を基にした、新しい、独創的な歌を創り出すことに努めることも大事である。また、琵琶を語り物の伴奏の楽器としてだけではなく、器楽的な面をさらに発展させていかねばならない。
最後に、現行の琵琶の歌のほとんどが、なぜ悲劇的なものであるかということについて考えておきたい。琵琶は古来より、死者の魂を慰める道具、鎮魂の聖なる楽器として使われてきたのである。琵琶をたしなむ者の心の持ち方として絶えずそのようなことを意識するべきではなかろうか。
? |